2016年冬、プロジェクトの開始から1年を経て完成した「影の由来」を観たとき、故郷のない自分にもはじめて故郷ができたような気がした。目を見開いたまま眠りに落ち、夢を見るようにして帰還することのできる故郷が。

いっさいの役者が登場しないこの映画の舞台は、幽霊たちの声が空気のようにあたりまえに遍在する田舎町だ。2年の歳月をかけて波田野州平監督は、自身の生まれ故郷である鳥取県倉吉市をたびたび訪れた。そこですべてが撮影され、元兵士らの話が聞き書きされ、古写真や手紙といった資料が回収された。この映画はそうした無数の断片によって編み上げられた織物ではあるけれども、しかしそうした断片を線で結び、映画という空間のなかに小さな歴史として再構築してみせることを意図していない。むしろこの映画は、この土地で気の遠くなるような歳月をかけて培われてきた死生観、あるいは集合的記憶の翻訳であると言うほうがふさわしい。そしてそのヴィジョンゆえにこの映画は、言わば無時間的な、ポエトリー・フィルムと形容していいだろう文法を選ばざるをえなかった。



戦地から二度と帰ることのなかった夫、その帰らぬ夫に宛てて密かに手紙を書き綴っていた妻、かつてこの町に暮していたはずの彼らの声は、この映画のなかで幾度となく光が照らし出す煙や雲、あるいは光の産物である陰翳のように、気配として親密に漂っている。そして最後に気づくだろう。それらの声は、映画のアルケーである光それ自体であるかのように、この映画を横断し、満たしてもいるということを。

一家総出で餅をついて餅花を飾り、湧き水を汲んで墓に供花し、竹林に分け入って筍を掘りその皮を剥く。いにしえより変わることなく素朴な暮らしを営む人々は、映画のなかで一言も発しない。祭りに興じ、噴水に戯れる子どもたちですら。大気中に旋回する鷺や燕たち、蜜を吸い羽搏く蝶たち、濡れたような緑蔭や川底に沈む陶片も沈黙を貫いている。映画のところどころに挿入される、かつてこの町に確かに生きていた者たちの光学的痕跡である写真もまた、口を噤んでいる。「影の由来」には声も音楽も後からつけられてはいるけれども、その本質においては揺籃期の映画がそうであったようにサイレント映画なのだ。幽霊たちが語る声、そして自分の提供した音楽も、沈黙をより沈黙たらしめる、そのためだけに映像に寄り添っているかのようだ。



音楽を制作するにあたって、監督からの、いやむしろこの映画自体からの要求に耳を澄ましていると「残響(リヴァーブレーション)」という言葉が不意に心に浮かんだ。幽霊たちは明らかに存在してもいなければ全き不在でもない。彼らを「いる」とも「いない」とも誰にも言えない。それと同じく、ギターという楽器においても、弦の振動から生み出されて沈黙へと減衰してゆく音の行方を耳で追ってゆくと、音が聞こえて「いる」のか「いない」のかわからなくなってしまう。つまり残響とは音の幽霊なのだということを、この映画はそっとぼくに教えてくれたのだった。


影の由来
2017年
カラー 27分
波田野州平監督
声:藤本徹、石坂智子
台詞:藤本徹、波田野州平
音楽:清岡秀哉